2カ月強かかったが、先週トルストイのアンナ・カレーニナを読み終えた。

冒頭の一文

冒頭は以下の有名なフレーズで始まる。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

幸福な家庭は、必要なものが全部そろって初めて成り立つ。だからどれも似てくる。逆に不幸は、そのどれか一つが欠けるだけで、いくらでも別の形になる。これはプライベート(例:家庭)のみならず、ビジネス(例:会社等の組織)でも同じなんだと思う。

二つの物語

小説の内容としては、主人公アンナとヴロンスキーの不倫と破滅の話として知られている。

ただ、もう一つ、農業経営者リョービンとキティの物語も平行して織り込まれていて、自分はこちらに強く引き込まれた。

リョービンの経営観

リョービンは広い領地を持つ経営者だ。地主仲間が集まって農業経営を論じる場面に、こんなやりとりがある。

個人的な利益に立脚していなければ、どんな活動も強固なものとはなりえない。

彼の兄ニコライは「資本が労働者を抑圧している」と共産主義に傾くが、リョービンはそこには乗らない。領地を手放すことも、収益を諦めることもしない。

労働の手応え

一方でリョービンは、「利益だけ」には切り詰められない。それがはっきり出るのが、農民に混じって自分で草を刈る場面だ。

労働自体のうちに報酬があった。はたして労働は誰のために行うのか? 労働の成果は何なのか?——そんな詮索は余計なもの、つまらぬものだった

儲けは要る。でも、儲けだけを問い続けると、この労働そのものの手ごたえがこぼれ落ちる。リョービンが探しているのは、利益を出しながらそれを目的のすべてにはしない、その難しいバランスだ。

リョービンが掴んだもの

物語の最後で、リョービンがつかむものも数値で測れるものではない。

これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えてはそれを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味を持っている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにはあるのだ!

完璧になったわけではない。相変わらず苛立つし、間違える。それでも一分ごとに意味があり、その意味を自分で与えられる。彼がつかんだのは、測れる答えではなく、そういう確信だ。

余談:複式簿記

最後に余談ではあるが、途中で簿記に関する下りがあった。

本当の管理体制もなければ計算もできない。……きっと何がもうけで何が損なのかさえわかっていないだろう」「イタリア式簿記[複式簿記]というやつですな。……いくら皮算用しても前提になるものがどんどん壊されてしまうんで、儲けが出っこないのです。

なんか今でもたまにこういう状況を見たりする気がした。

この記事は note にも掲載しています ↗